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2005年4月19―21日 ビルマからの帰途・・命を落とした沢山の日本兵を偲び

現在当社では、旧日本人兵の足跡を辿りながら日本人慰霊塔や日本人慰霊碑などの、皆様に変わりましてチエンマイに住む者として掃除やお祈りを捧げるために現地へ出向いて降ります。
皆様からの暖かいお心をお受けして続けて行きたいと考えています。
出来る限り長く続けて行きたいと考え、暖かい皆様からのご寄付をお願いしております、その寄付は設備修理や掃除お祈りを捧げる費用に当てさせて頂きます、残りは 学校への援助や当時の遺品などを譲って頂き、クンユアムの博物館などに寄付して管理をお願いして行きたい所存です、暖かいお心お待ちして下ります。
メールでのお問い合わせをお待ちしております。 info@lgreenplan.com



チェンマイからメーアイにある学構内の慰霊塔を再び訪れ、クユアム、メーホーソン、パイと日本人兵士達の
激痛や病気と闘いながらその暑さと遠い道のりを今回は尋ねて見ました。



  <何を如何書けば良いのでしょう?それが最初の一言です・・・・>
  ”誰がこの地獄を体験したのか?誰がこの苦しみを味わったのか?
       誰が今ある日本の為に戦ったのか???”
    <忘れ去られようとしている事が哀しい事実だと思いました。>

気温の暑さ・食べ物の乏しさ・水不足・獣達からの攻撃・悪夢の病原菌に観まわれる恐怖との戦い・その全てをわが身の背中に負い共にこの厳しい山道を歩いて戻って来た日本兵達の声、哀しいかなそれも叶わず命を落とした人々の声なき声が全身に降りかかって来るようで胸が熱く涙が止まりませんでした。そこに無造作に置かれた干からびた花・・誰も訪れない事を知ることが出来る乾いたコップ・・如何したら沢山の人にここに足を向けて貰えるのか?どうしたら沢山の人の心の中に忘れずに置いてもらえるのか?戦後に生まれ育って来た私共にとり戦争は難しい過去の哀しい出来事・・・そして占領していた時代に犯した日本軍の過ち・・戦後の歴史の中で未だ解決されていない沢山の出来事は戦争を知らない自分達でも責任と言う哀しい言葉でそれを引き継いで行かなければならない辛さ、そんな時代の流れの中で、このタイ国のこの場所に居た日本兵の人々の心の優しさを嬉しいと表現して良いものか?どうか・・しかし、これが日本人の本物の優しさだと理解してもらえている事への素直な喜びは隠せる物ではありませんでした。年間を通してこれらの慰霊塔や石碑などを訪れる人々は20人を超えることはないでしょう・・誰にも祈られずただ訪れる人を待ち静かに眠る方々が寂しそうでなりません。
今回も自腹で日本酒を捧げ花を活け祈りを捧げて参りました。お線香を焚き祈りを捧げる姿を目にした、観光地への移動中の通り縋りの外国人が、水を差し出してくれました、持ち合わせているはずもないのに、少しのお菓子を備えてくれました、ポケットの中からミカンを供えてくれました。やはり戦争を知らない若い人々でしたがそれでもそうしてくれた彼らの優しい心に感謝したい気持ちで一杯です。また、パイの街から学校が休みのこの時期に観光で偶然立ち寄った博物館に足を運んで目にした慰霊碑に手を合わせてくれた、タイ人の方々にもこの場を借りてお礼申し上げます。


自分の足でその場所に立って見て

今現在、道も舗装され車と言う便利な乗り物があり快適に現地を回る事が出来る・・しかし!真夏の日差しはガラス越しに鋭く突き刺し肌をアブルようだ、その上渇き切っている地面からの埃が巻き上がり口の中に入るは、喉が乾いても水を探す事すら難しい場所、その上山間の道の斜傾度は物凄くこれでは直ぐ靴も遣られてしまうだろう、とてもじゃないが人間が歩いていれる場所ではない!現在でさえそんな状態の場所、当時はそこに道もなく、食べ物などあるはずもなく、獣達に狙われ、怖い病原菌が付いて回る、そんな場所を日本兵の人々は傷ついた体を引き摺りながら休むことなく歩き続けたのです、それは遠い故郷を思い、母を思い父を思う心が死との恐怖と戦いながらも、辛うじて歩かせていたのでしょう。
音もなく、物凄い暑さと恐怖、食べる物もなく止まれば死しか残されていないそんな状況がもし、自分なら??
もし、このタイのこの場所で考えたら・・途方に暮れて死を選ぶ人が95%いると確信できます。暴言かも知れません。けれどもそれほど長くて辛い道のりであった事はここに来た事がない人には分からないだろうと言うこと!それを伝えて行く事が彼らへのハナムケの言葉になるのではないでしょうか?クンユアムのこの慰霊塔がある場所から更にメーホーソンに向けて進むと、ここで力尽きて命を落とした人々を祭る塔が建てられています。それでもここはまだチェンマイまでは1/3にも満たない距離だったのです。如何に過酷な状況での移動だったかを感じ入りやみません。この先に待つ険しいパイの山々を歩き通して生きてチェンマイに戻る事が出来たときどんな思いであった事だろう・・せっかく瀕死の努力でここまでたどり着いても今までの緊張や全ての物に解き放たれた時精根尽きてしまうのです、無念・・だろうと思います、お国の為家族の為に・・・物語りを語るつもりはありませんが、そこを歩くだけで伝わる何かを感じたままに書いています。涙涙のお参りでした、日本酒をコップについで祈ると・・イヤー何年ブリの酒かな??日本の匂いがするなあ・・日本の人々は皆元気だろうか?・と笑い顔と声が聞こえてくるようでした。未だ発見出来ていない6万人もの日本兵達の位牌・・歩く道の地面の奥深くからここにいるんだよ早く気付いてくれよ・・と哀しい声が聞こえても、誰にも届かない哀しい声・・白骨街道と呼ばれたその道端に転がるようにして放置されていた遺骨は何回かの遺骨収集で慰霊塔に納められて来ましたが、それでも不明な6万人と言う数はこれからどうなるのでしょうか??そこを自分の足で歩いたならば・・彼らの痛みも苦しみも感じることが出来るかもしれない・・それがたとえ2%と言う少な数次でも・・彼らは報われると信じたい。 
これらの
白骨街道を旅するだけでも大変な環境と距離です、ツアーを組んでこれるところでもありません。
そこで日本人がそれらを管理する事すら出来ない状態です。幸いにも、自分の財産を崩してでも当時のことを大切なことと受け止めてこれらを守るタイの人々がいます。日本人として如何したら彼らの手助けが出来るのだろうか? と心痛めております。
皆様からの暖かい声を心をお待ちしております。
                            
                                                       市毛みどり2005年4月25日

当社ではお参りに行きたいが現地に足を運べないと言う方々や体の自由が利かないので代わりにお願いしたいと言う方
品物などを供えて欲しいなどの要望がある方々を対象に出来る限りのご要望にお答えして下ります。
お問い合わせ・質問・確認などがございましたらば、下記の連絡先までお願い致します。

また、
学校や団体・法人の方々からの寄付もお受けしております。


*33/1 Chondoi Soi 1 T.Suthep A.Muang Chiang Mai 50200
*7Nimanhemin Rd. A.Muang Chiang Mai 50200
電話番号/FAX 66-53-895027 http://www.lgreenplan.com
メール  info@lgreenplan.com / lgreenplan@yahoo.co.jp

太平洋戦争の傷跡 1

チェンマイ周辺の日本兵慰霊碑・塔などに関する情報



戦争を知らない時代を生きていく自分達や子供達忘れてはならない戦争と言う悲しい事実
決して起してはならないと肝に命じなければならない戦争を考える。


歴史: 開戦の決意は1941年11月5日の御前会議の新「帝国国策遂行要領」で固まり、開戦日も陸海軍作戦当局者の間で決定。1941年12月8日 ニイタカヤマノボレを合図に日本軍は真珠湾攻撃への攻撃を行う。これが有名な真珠湾攻撃、後にも先にもアメリカを心底怒らしたとされる大きな戦線布告であった。タイ南部のソンクラーの上陸を行いました。これが所謂太平洋戦争の始まりでした。
日本はタイと講和条約を結びタイは日本軍の国内駐留を認た、それはタイが隣国ビルマやインドに対しその勢力を伸ばしたかったからであるとされている。

この後日本軍はインド東北部にインパール作戦が行われた。インパール作戦とは、ビルマに進入した日本軍が幾多の作戦によってほぼ全ビルマを占領したあと、さらにビルマ国境を越えてインドに進攻しようとした一大作戦をいう。この作戦はビルマを確保するためにはビルマの防衛線を国境外に推進しなければならないとする戦略と、インドに兵を入れ、インドを独立させて英国を浮き上がらせ、英米の連合戦線を分断することによって太平洋戦争を終結に導いてゆきたいとする政略とが結びついて企図されたものである。
インド、北ビルマ(ミャンマー)、バングラデッシュ、中国(雲南省)の国境地、ビルマから国境をインド(マニプル州)へ越えると要衝インパールがある、この地域はヒマラヤ山脈がインドシナ半島に落ちるところであり、地形は極めて険阻、インド・ビルマ国境をなす西側山脈(アラカン山系、パトカイ山系)は 3千m 級でかつ急峻、容易に人を寄せつけなかった。それに添って南流するチンドウィン川(下流はイラワジ川となる)も夏季 には最大 1 日 1000 ミリを超える雨量(東京の年間雨量に近い)で水嵩が増し、荒れ狂う無数の流れに分かれ氾濫、また、流域は高温多湿でチフス、マラリアなど熱帯病が猖獗(しょうけつ)し猛威を振るった、と記録されている位最悪なる場所であった。
これによる日本軍兵士達の日本に向けての過酷で悲惨な帰国までの道のりがあり、多くに兵士達がこのチェンマイで命を落として行ったのです。その戦争の真実を伝え、兵士の霊を慰める慰霊塔が幾つかこの北タイにも立てられています、厚生省による遺骨収集が行われましたが、5万から6万体の未収集の遺骨が北タイには埋まって要るだろうと言われているのです。昭和時代の残した哀しい事実、しかし日本国は何故援助の手を差し伸べないのだろうか?今や平成時代となり忘れ去られようとしているこの事実を、このまま投げ出したままでいいのだろうか??
未だ過去の傷を癒されない人々が沢山存在し過去の事実を知るタイ人が現存する今だからこそ、キチンと目を開けてこの時代の哀しみを残すべきなのではないだろうか?
今の時代この悲惨な事実を知らない大人が増え忘れ去られて行く・時代の流れ・・・自分一人ではどうすることも出来ない憤りを感じます。

また、こうした状況の元日本人兵士達の心を救うが如く自費で彼らの遺品を集めメーホーソン県クンユアムに博物館を建設されたタイ人のチュチャイ氏はこう語る”日本軍の残虐さに主眼を置くカンチャナブリの博物館とは違う、タイ人も苦しめられたが、日本兵も国家の命令でここまで連れてこられ苦痛を味わった、その戦争の悲惨さがこの博物館のテーマであると
・・・カンチャナブリにおける日本兵の残虐きわまる行いは今でも日本人の心を傷つける、それは戦争に勝ち進んで来た者ぞしる栄光と誇りの現れだったのではないだろうか?また、そのあるべき日本男児の誇りが戦争と言う形で歪んでしまい、戦争で異常な状態に置かれた彼らの精神状態は、負けると言うことの恐怖、毎日命を落としていく捕虜達、熱帯地帯独特の異常な暑さと病気への恐怖、それらは恐らく計り知れない恐怖との戦いであったのではないか?と推測する
広島に原爆が落とされ天皇陛下からのお言葉は彼らにとり生きる術をなくしたも同然のもぬけの殻となり、インドからメーホーソンに抜けチェンマイにたどり着くまでには生きる気力どころか生きていく目的さえもが失われ、歩き続けボロボロになった靴を捨て直下に歩けば足の裏が遣られ、飲む水が無い為畑の水を飲み、川の水を飲めばお腹を壊し、傷口にたかる虫から炎症を起し蚊に遣られてデング熱マラリアに係り、ここで体力を失ったものは日本に帰ることは叶うことなく苦しみから逃れる為に自決していく・・・命が無事でチェンマイにたどり着いた物も安堵も束の間力尽きてしまう・・・日本人がインパール作戦で各国からインドに送られて来たのが30万人、そこから命辛々逃げてきたのが10万人タイに居た兵士を合わせると約12万人。その12万人一人一人に粗目のお砂糖を配り日本に返したくれたタイ国政府の優しい心に救われてここまで来た日本である事も、日本兵達の哀しい苦しみも忘れてはならない大切な歴史の一部である、と言うことをこれからを生きていく自分達がしなければならない事を改めて考えて行かなければならないと感じざるには終えません。



日本軍の足跡を訪れる

チェンマイより300km離れたクンユアムにはワットムアイトー・タイヤイスタイルの美しい寺院があり・ワットフアウィエンは廃寺だが昔は病院、軍票印刷所があった所だ。このクンムアンだけでも7000人日本兵士が亡くなっている。 第2次世界大戦中、日本軍はチェンマイに約3万人駐屯していたと言う。タイは戦場にはならないで済んだがその足跡に付いては多くを語られていない。チェンマイ市内には当時駐屯していた日本軍の本部がワットムーンサーン寺院にあり、病院、宿舎、軍票印刷所、養豚所、畑などがあったとされている。慰霊碑自体は1980年今から25年前に戦友たちの手で建てられている。従軍看護婦として勤務していた方は境内の中におおきなタマリンドを覚えているという事だ。

********************
メーホンソーン県にある、クンユアム郡はミャンマーとの国境にあり、ビルマ作戦に於いて重要な基地のひとつであった、サルウィン河の渡り地点ケマピュ―に道は続いていて、更にトングーに繋がっている。そしてこの道がインパール作戦後日本兵が敗走し戻って来た白骨街道と呼ばれている道である。
この時点でも既に7000人に上る将兵が命を落としたと言われている。
チェンマイへ向かう道は3本のルートがある、そのうち北回りの道では自動車道建設の為に多くのタイ人労働者が命を落として入る事からここも白骨街道と呼ばれた由縁である。しかし当時、ここでの現地住民と軍との関係が保たれて入た事で多くの交流が生まれ今日に至る物である。

第二次世界大戦のビルマ戦線に参加した日本軍将兵が残した小銃、日本刀、飯ごうなど戦中から直後に掛けて、日本兵が地元の人々に売ったり譲ったりした武器や遺品が多くの現地住民の家に秘蔵されていた事を知り、当時のクンユアム警察署のチュチャイ署長らが住民に協力を求めて展示する同意を受けた、それらの保存状態がすこぶる良いことは当時に日本兵達がヒモジイ、貧しい食料の中・村を襲撃してまでも手に入れた食料ではなく、食料と交換して得た物であると言う証拠であろうか・・ここにいた日本兵は少なくとも日本人の優しい心は失わずに居たということが証明されているように感じた。約1000点に及ぶ遺品が集められ{タイ・ビルマ戦線将兵鎮魂之碑}が開館した。
このチュチャイ氏はこの博物館を開館するに辺りこう語られている。
”日本軍の残虐さに主眼を置くカンチャナブリの博物館とは違う、タイ人も苦しめられたが、日本兵も国家の命令でここまで連れてこられ苦痛を味わった、その戦争の悲惨さがこの博物館のテーマであると・・・
この言葉はそう簡単には出ないと思う、それでも彼がここまで日本兵を大切に思って入てくれる事が何より喜ぶべき戦後の姿ではないだろうか?



この写真はランナーエクスプローラー提供の物です。
メーリムのワットドンゲーオと山岳民族学校内には、日本軍の病院なども残されていたが現在では池があるだけだ。山岳民族学校の敷地内には、爆撃によけの防空壕後らしき物もある、敷地内にはこれと同じ物が多く残されていたらしいが、時代と共に埋められ壊れたりして現在では1つだけが残されていた。以前には敷地内の土地を掘り返して入た所、日本人の物か分らないが人骨が出てきたということで池に骨を埋め供養の為に祠を建てたということである。この近くに日本人がいない為ここを面倒を見る人が居ないその為荒れ果てた姿が哀しい姿に見える。しかしこれが時代の流れである事に違いはない。



ここに眠る方々は18000人しかし、実際には
この3倍以上の人々が行方不明のままタイの
土の中で眠っている、早く全ての人々が発見
され無事に永遠の眠りに着くことが出来たらと
願わずには入られない。
それはこれからも続く
長い時間との戦いになるだろう。



メーワーン郡パーンガートー中学高校敷地内にある慰霊塔 ・タイ・ビルマ方面戦病没者追悼之碑と鐘楼、その全ては日本から運ばれて来た物だ。ここには当時ビルマからクンユアムを通り逃げ延びここで力尽きた日本兵の遺体がバーンガート中学高校内の池に沈められたままになっていた。当時の日本軍の軍医であった人の証言がありここがそうであると言う事実が分り1990年に佐賀県の僧侶が中心となりタイ・ビルマ方面戦病没者追悼委員会が作られ1993年に慰霊碑が建てられた、この管理を学校側にお願いする代わりに生徒に奨学金を支給する方法をとって入る。1998年と2000年には厚生省による遺骨収集が行われた。
2001年に昭和天皇からの贈呈品としてこの鐘楼が建立された。
看板などの説明を見る限り手前の池に骨が捨てられていたような説明だったが、実際にはこの慰霊塔の中央にある慰霊の下がそうで
ある、そこから骨を入れるようになっていた、そこは今も塞がれず誰でもが覗いてみる事が出来るが・・その下は何mも深くとても覗いて見れる様子は無い。この慰霊塔の後ろ手に実際に日本兵が暮らしていたが、今ではその後には特に何も残されては入ない。誰も説明がない限りそこに何があり、誰がそこにいたのかさえも不明だった。
偶然出会わせた学校の庭師が説明してくれた、自分の父親が世話をしていた、自分も亡くなるった方々を埋葬する手伝いをしたりして来たと・・敗戦の報告がラジオで流れた翌日或いは、その夜多くの日本兵が自決したと話してくれた。それが日本人の責任の取り方なのかとその時は恐ろしい思いで様子を見ていたものだと・・・しかし良く考えてみれば怖かったんだろうと、今更ながら気の毒に思うと話してくれた。この辺りに沢山の関係施設があり戦後手が加わり遺骨も点々と埋められていた為この地に慰霊塔を建てる許可を学校に申し要れ許可が降りてから終了するまでに必要なものが全て日本から運ばれて来た物であった。
昭和天皇亡き後の昭和天皇からの贈り物・・彷徨う霊達がこの鐘の音が目印となりここに集まり健やかなる眠りにつく事を祈るばかりである。


太平洋戦争の傷跡 2


ヘルファイアーパス

「死の鉄道」(DEATH RAILWAY)とも呼ばれる泰緬(たいめん)鉄道は、アジア侵略を押し進める日本軍がインド侵攻のための軍需物資の陸上輸送ルートを確保する目的で敷かれた軍用鉄道である。タイ(泰)のノンブラドックとビルマ(緬甸)のタンビザヤを結ぶ415kmに及ぶ鉄道は密林のジャングル、山岳地帯を通り、かつて同じルートでイギリスが計画を断念したほどの険しい地形の中に建設された。
  1942年7月5日、日本軍は前年に同盟国となったタイで泰緬鉄道建設の測量作業を開始した。当初調査段階では最低5年はかかると考えられた難工事であったが、日本の戦局の悪化に伴い急ピッチで工事を進めるよう命令が下り、43年10月17日、工事開始から1年3カ月という驚くべき早さで泰緬鉄道は完成する。 
  工事には連合軍捕虜約68000人、中国・インドネシア・ビルマ・マレーシア・インド・シンガポール・タイのアジア各国から募集、強制連行された労働者推計300.000人が動入された。地理的な悪条件に加え工期の短縮により労働は苛酷さをきわた。猛暑の中、人海戦術でクワイ河沿いのジャングルを切り開き、国境山岳地帯の岩を削る作業が連日長時間続き、追い打ちをかけるように激しいスコールが襲った。重労働、日本軍による虐待、食糧・医療品の不足、マラリアなどの伝染病によって莫大な数の死者を出していった。その数は連合軍捕虜約13000人、アジア人労働者100.000人。死者の正確な数字は定かではなく、特にアジア人労働者はジャングルの奧に眠る死者の数が2万とも3万ともそれ以上ともいわれる。この工事で一番の難所を極めた場所をヘルファイアーパスと呼んだ。
 歴史上でもっとも悲劇な場所で夜間の工事を照らすたいまつが地獄の業火のように見えたことからこの名前がつけられた。
ここを切り開いて進む為には丸太が必要であった・・たった130mの切り通しを作るために・・・その丸太の代わりに1人の人間が置かれ命を落としたのだ、人の命の尊さをその時どう考えたら出来たのだろうか?この130mの切り開期の為に犠牲になった人々は400人を超える・・しかもここで命を落とした人の大半がオーストラリア人だった。

泰麺鉄道が作られた理由
1942年5月日本軍の輸送路は台湾からシンガポールを通って来ていた、しかしインドに進むためには更に輸送路を確保しなければならなかったが、南シナ海にはアメリカ軍の潜水艦がインド洋には連合軍の航空機が来て日本軍の輸送路を遮断した為、タイのバンコクからビルマのラング―ンを繋ぐ為にタイのノンプラットとビルマのタンピュザヤを結ぶ415kmの単線軌道を造ったとされている。
しかし、南シナ海とインド洋の両方からモンスーンが吹き荒れビルマとタイの間にはテナセリューム山系と言う山脈がありこれが正面から衝突する為困難を要したのである、その上ここは世界の中でももっとも最悪な悪疫が反映する場所としてあらゆる病気が蔓延していたところだった。
これを承知でこの鉄道は造られたのである。なんと無謀なと当時は誰もが日本を非難したと言われている。
当時日本軍は占領地で連合軍をシンガポールに集めていた、シンガポールで捕虜になった人だけでも15万人約30万人はそこに集められていたと言われています。その中から言葉巧みに誘い約68000人が志願しタイに連れて行きました。
この人達以外にもビルマから18万人、マラヤから8万5千人、インドネシアから4万5千人合計30万人の労務者を連れ日本軍が1万2千人全部でそこには40万人以上の人たちがいた事になります。食糧不足・アメーバー赤痢・マラリアなどに遣られ40万人の半数がそこで命を落としています。その上日本軍はビルマの食料を食べ尽くし、イギリスはその民家に逃げ隠れしていた日本軍を狙い民家に爆弾を落として入た為、ビルマはほぼ全滅に近い状態に陥り、その為か今に至るまで国事態が回復出来ない状況にある訳です。
 
戦後、泰緬鉄道での日本軍の行為は問題となり関係者多数が「捕虜虐待」として戦犯とされます。
  泰緬鉄道を有名にしたのは、クワイ川架橋建設をテーマにした映画「戦場にかける橋」(英、1957)であったでしょう。映画では橋の建設という共通目的の中で日本軍と英軍捕虜が一丸となっていく姿が描かれています。映画の最後では英将校が連合軍の攻撃から橋を守ろうとさえします、しかしそれは映画の中の話で、このクワイ河架橋は建設中から連合軍の攻撃で何度も破壊され、日本軍は連合軍捕虜を攻撃抑制のために橋の上に立たせる「人間の盾」としたと言われています。それでも爆撃は行われ、多くの犠牲者を出し他のです。
 現在、泰緬鉄道はタイ国内ノンプラドックからナムトックまでが一部運行されている。その途中、「戦場にかける橋」の舞台になったクワイ川鉄橋のあるカンチャナブリに泰緬鉄道に関する記録を展示した「JEATH・戦争博物館」がある。「JEATH」とは泰緬鉄道にかかわった6カ国、日本(Japan)・イギリス(Engrand)・アメリカ(America)・オーストラリア(Australia)・オランダ(Holland)・タイ(Thailand)の頭文字を合わせたもので「DEATH=死」をもじっている。単なる「死」の博物館ではない、「日本」による「死の博物館」であることを明確に示しているように思える。同博物館の表門にはこう書かれている。“FORGIVE BUT NOT FORGET”「許そう、しかし忘れない」。


ここカンチャナブリの戦争記念館には当時の日本兵のして来たことを強調する展示なため、沢山のそこを訪れる日本人には胸が苦しくなるものばかりである。


二度と同じ過ちを犯さない為に

今後私達残された人間がいかに平和に暮らしていくかと言う一番難しいテーマを投げ出されているように思います。
世界中でこの悲惨な戦争を繰り返し行うことの無意味さ!それを個人がどう考えどう判断するか?
これが一番難しいテーマであるように思います。
旅行であれ、ステイであれ、ここに来たと言う事は忘れてはならない昔の事情を踏まえて
歩いていかなければ行けないと言うこと。そこから新しい世界の結びつきが生まれて行くだろうという事を・・




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